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  労働者文学作品集

小説     愛 す べ き 男    篠原貞治

 「やあ、しばらくでございます」
 地下鉄に通じる階段。二、三段下から声を掛けられた。いきなりで、ぼくは面食らう。見たこ
ともない男。きちんとスーツを着て笑顔で立っていた。
 「えっ?」
 「お元気そうで何よりです。えーと、どなたでしたでしょうか?」
 見覚えのない男だ。ぼくは男と見詰め合っていたが思い出せない。通行人の邪魔になるのでや
むなく階段を下りた。
 「何処でご一緒でしたか。池袋、新宿、いや、山手線でしたでしょうか」
 男は深く考えるふうでもなかった。始終笑顔を見せ、真面にぼくを見ていない様子だ。不審に
思いぼくは相手の顔を見詰めた。見たこともない顔だ。
 「あんたを知りませんよ。人違いでしょ」
 「いえ、どこかでお会いしているんです。それがどこだったか思い出せない。お顔を覚えてお
りますから、何か忘れられないことがあったと思うんですが、思い出せません。年をとり忘れっ
ぽくなったんですね。恥ずかしいことです」
 「年をとったのはぼくも同じだけど。ぼくにはあんたの顔を全く思い出せない。ところで、あ
んたの名は?」
 「あ、わたしは斎藤と言います」
 「斎藤さんねえ。斎藤、佐藤の名字は多いからなあ」
 「失礼ですが、あなたは何ておっしゃるんですか?」
 おかしな男だ、本名を名乗りたくないなあ。ふと、これから訪ねようとする親戚の安田の名が
ひらめき、口を突いて出る。
 「安田」
 「安田さん。そうでしたか。そう言われるとそんな気がいたします。わたしは以前、運転手と
か外回りの仕事でお客さん相手の仕事でしたので、何千という人と付き合いがありまして、その
中にあなたがおられたはずで、特にあなたのお顔を覚えているということは、何か特別な関係が
あったと思います。それが思い出せない。悪い思い出ではないことは確かです。とにかくお元気
そうでおめでとうございます。で、これからどちらへ?」
 「まあ、どこでもいいでしょう」
 「地下鉄?」
 ぼくは唆味に領く。
 「わたしも地下鉄で…」
 おかしいと思う。この斎藤は、地下鉄の階段を上って来て階段途中でぼくに声を掛けてきたは
ず。地下鉄で来たのにまた地下鉄に乗ると言う。
 「ぼくはちょっと本郷」
 「はあ、ちょうどよかった。わたしもその辺まで。ご一緒しましょう」
 「いや、あんたはあんたで、どうぞ」
 ぼくは得体の知れない男斎藤と、何とかして離れたかった。ともするとこの男は、一種のタカ
リを目論んでいるのではないだろうか?
 何時だったか、池袋駅周辺で、知らない男に声を掛けられ困ってしまったと、静岡の友人がこ
ぼしていたのを思い出した。誰にでも顔見知りのように近付いて来て声を掛けるという。斎藤を
何とかまくことが出来ないか。
 「あんた先にどうぞ。ぼくは買い物して行くから」
 「偶然お会いしたのですから、これは神様のお導きです。本郷までご一緒しましょう。話して
いるうちに、どこでお会いしたか思い出すかも知れません。わたし待ってます。
 危ないなあ、スマホを見ながら歩かないでよ。困るね、今の若い者は」
 斎藤は関係ないことを付け加えた。
ぼくは斎藤を無視し、デパートの地下食品売場に入った。本当は買い物などない。斎藤をまい
て、どこかの出口から逃げ出そうと考えていた。ぼくは食品売り場を通り抜けようと人波を縫う。
買いもしない菓子売場のケースを覗いたり。ふと、ケースの向こうにあの斎藤がいるではないか。
ぎょっとした。男はカステラか何かの試食品をつまんでいる。あの野郎!ぼくは腹の虫がおさ
まらない。ぼくを追いかけてきたのだ。ぼくは、斎藤の行動を盗み見しながら歩いた。斎藤はケ
ースの前に立ち、買おうか買うまいかといった態度で、買いもしないであろうサイコロほどのチ
ーズの試食品を楊枝に差し、口の中に入れていた。そしてもう一個楊枝に差し、ゆっくり口に入
れ首をかしげたりしていた。
 斎藤は漬物店の前に立つのが見えた。ぼくの予想した通り並べられた漬物の試食品に手を出し
ている。残りの二つ三つの試食品もつまむだろう、その隙にそこを離れようとぼくは身構えた。
入口を出ようとすると、「しょっぱい漬物ばっかりだ」と背後から声がする。ぼくはびくりとし、
振り返ると斎藤は素知らぬ顔で立っていた。
 「あんたはストーカーをやっている。警察に言うよ」
 「そんな…。あなた、えーと?」
 と、手帳を開いて「安田さん。安田さんはやさしい人だ。今も変わっていない」
 ぼくは、安田の名を手帳にメモっていたのを知った。
 「ぼくはやさしい人間なんかじゃないよ。こんなに馬鹿にされ、付きまとわれて黙っていられ
るか。離れろよ、ぼくから離れろよ!」
 ぼくは斎藤の胸を押した。斎藤はよろめいた。
 「こんな乱暴する人じゃなかった。やさしい人だった。だからわたしは覚えていたんです」
 「そのやさしいぼくの名は?」
 「安田さん、です」
 「手帳にメモっていたのだろ」
 「年を取ると本当に忘れっぽくなります。昔はよく覚えていて名前が直ぐ出たものですが。申
 し訳ありません」
 男は初めて寂しそうな表情をした。ぼくは男を少しかわいそうになった。
 「ぼくの名は安田じゃない。あんたがどんな反応をするか知りたかっただけ」
 「はあ、よかった。実はわたしも斎藤なんかじゃありません。ありふれた名字を言っただけで
す。」
 ぼくたちは笑い合う。お互い嘘を言い合っていたのだ。ぼくは何となく斎藤に親近感を持つよ
うになった。  「ぼくの本当の名は吉住。あんたは全く記憶にないはず、だろ」
 男は笑いながら領いた。
 「わたし関です」
 「関ね。斎藤とは似ても似つかない」 「あなたも似たようなものです」
「関さん、あんたの手口に引っかかる人っているんだ?」
「手口とか引っ掛かるとか言わないで下さい。まあ、稀にはいます」と答え、関は笑った。
「東京の人はなかなか難しいです」と付け加えた。
「その手で女を騙せばいいじゃないか」
「女、女はだめです。あとは面倒。第一飯を食いに入ってもこっちが金を出さなくてはなりま
せん。そんなことなら一人で食った方がいいです」
  「というと、あんたは相手に奢ってもらうために人を見付けて歩いてるんだ」
  「そういうことばかりじゃありません。人と話しをしたいんです。人と会話を持つことが、わ
たしの生甲斐なんです。誰でもいい。変わった人の方が新鮮かな」
  「ぼくを呼び止めたのもそんな理由で?」
  「いえいえ、とんでもない。どこか見覚えのある人と思ったからですよ」
 関は強く否定しているように言う。本当だろうかと思う。ぼくは人が良すぎるからな。要する
に馬鹿なんだ。友達にも言われたこともある。
  「会社を退職してしまうと、同僚は見向きもしないし、女房は離婚、一人住まいのアパート暮
らしでは近所の連中も声をかけてくれません。町へ出て見ず知らずの人とでも、言葉を交わせば
一日気持ちがすっきりします。一緒に呑めればこんないいことはない。贅沢ですよね」
  「その上、ならば相手にめし代をタカるってことだ」
  「そんなつもりじゃないけど、話しをしているうちに、何となくそんな結果になるってことは ありますが・・・」
  「まあ、いい。お互い僅かな年金で暮らしているのだろうか。ぼくにもその気持ち分かるよう
な気がする」
丸の内線に乗った。関は悪びれる様子もなく付いて来た。
「ぼくは本郷三丁目で降りないよ。気が変わった」
「今度はわたしを丸めるつもり?」
「このまま銀座」
「銀座? いいですね、銀座」
「ぼくもあんたと似たような境遇だ。税金が上がるっていうし年金も削られる。生きて行くた
めの予行演習しなきゃあ」
ぼくたちは銀座で下車し、晴海通りへ出た。ぼくは通りを真直ぐ歩く。関はどんな気持ちなの
か、ぼくに付いて来た。
 築地市場へ。場外売場はすごく賑わっていた。ほとんど外国人に見える。外国人はたどたどし
い言葉で話しかけてくる。それに対し関は、説明しながら歩いていた。ぼくは、外国人を関に任
せ、試食品のマグロや卵焼きを頬張る。関がデパートの食品売場で見せた態度を真似、さもその
商品に興味がありそうに、また買いたそうな顔を店員に向け、試食品を次々口に入れ、首を傾け
たりしていた。
大分歩いた。関は? と見ると、外国人らしき人の腕をとり、マグロを商う食堂を指さしていた。
そうして外国人と食堂の入口に立ちぼくを手招きする。
度胸のいい関のこと、外国人から丼の一つでもせしめるつもりではなかろうかと、ぼくは面白
くなった。

(『労働者文学』第74号、2013)
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